十年目の命日に
(2009年3月26日)

風歌を失って十年経ちました。

僕は妻が風歌を抱いている写真が大好きです。
僕は写ってないけれど、
2人の視線の先に僕がいて
妻も笑顔で
風歌も笑顔で
カメラを抱えた僕を見ている情景が浮かびます。
家族の幸せが詰まっているように思えます。
逆に僕が抱いて妻が取った写真の風歌は
どことなく不安な表情で妻のカメラを見ていました。
僕だけ凄い笑顔だったりして馬鹿みたいに見えます。

風歌が天国に旅立った直後
まだデジタルカメラが普及していなかった十年前
我が家のフィルムカメラには使用途中のフィルムが入っていました。
無理やり家の中や関係ないもので消費して
葬式で使う遺影を選ぶ為、忙しい合間を縫って妻と2人で現像をお願いしに
いつもお世話になっているカメラ屋さんに行きました。
10年前の3月26日の警察での取調べの後だったと思います。
笑顔で迎えてくれたいつもの店員さんに僕達は泣きながら事情を話しお願いしました。

『娘が保育園で亡くなりました、多分ニュースになると思います。
この中から遺影にする写真を選ぶかもしれないので
現像をお願いします。』

現像された写真は笑顔の家族写真ばかりで
もう風歌を抱きしめる事も出来ないのに
写真には幸せが一杯写っていました。
受け取った後、車の中で2人で泣きながら見ました。
無駄に消費した最後の方の写真には
風歌の写っていない我が家の写真が現実を映していました。

その店の方は気を使ってくださって
現像した写真の中で
風歌が一番可愛く写っている写真を大きくプリントしてくれて
写真立てに入れてくださいました。

今も僕の机の上のパソコンのモニターの横で
僕を笑顔で見てくれています。
本当にありがとうございました。
この場を借りてお礼をさせていただきます。

葬式会場では、会場の社員の方に大変お世話になりました。
前にも書きましたが
お通夜の時
和尚さんが帰った後
お参りに来てくれる方が途切れるまでずっと
風歌を棺から出して妻が抱き祭壇の前に座り
途切れてから
会場の真ん中に布団を敷き風歌を寝かせ
夫婦で添い寝をしました。
そして翌朝、
僕が風歌を抱き妻が運転して
生きていれば行くであろう所を
冷たくなった風歌とドライブしました。
そんな数々の勝手を許してくれました。
出棺の時
時間が来たので僕が棺の蓋を閉めようとした時
『まだいいじゃないですか』
そう言って涙を流しながら蓋をはずしてくれた社員さん
本当にありがとうございました。
祭壇の飾りつけも可愛い花をたくさん選んでいただき
本当に感謝します。

葬儀で涙を流しながらお経を読んでくれた和尚さん
戒名を
『春夢風歌嬰女』
(しゅんむふうかえいにょ)
と付けてくれました。
優しいお話をしていただき
今も心に残っています。
『あの世では時間の概念がこの世と違い
あの世で3日寝れば、誰か愛する者が
この世から旅立ちまた会える』と
僕は信じて生きていきます。
『風歌3日だけ我慢しなさい』と
いいお話心のこもった儀式本当にありがとうございます。

葬儀の礼状の印刷をお願いした印刷屋さんにも感謝します。
あまり面識もない間柄でしたが
わざわざ家まで来て風歌に線香をあげてくだり
そして涙を流してくださいました。
本当にありがとうございました。

そして、ISA(赤ちゃんの急死を考える会)の会員の皆さん
SIDS家族の会のビフレンダーの方
お子さんに先立たれホームページを通じて連絡をくれた家族の皆さん
他にも僕達夫婦を力づけようとしてくれた友人や親戚、知人、メールを届けてくれた方

感謝してもしきれません。
ありがとうございました。



風歌を失って十年経ちました。
この十年で思ったことですが

『悲しみは消えません。
でも
生きていれば笑う事もある』

これは一遺族の僕の実感です。

風歌を亡くした直後
死んでもいい、死にたい
そう考えたことが多々ありました。
高い場所に立った時
駅のプラットホームで
部屋で職場で
死はいつもそばに張り付いていました。
笑う事は一生ないだろうと思っていました。
人に笑顔を見られたくないとも思いました。

でも今は笑う事が出きる様になりました。

風歌が天国に召されて数年経ったある日
風歌の弟や妹と一緒に写っている写真の自分が
笑っていない事に気が付きました。
子ども達も笑顔ではありませんでした。
無意識か意識してか
風歌に気を使って笑顔を出さない自分に気づき
妻にどう思うか相談しました。

妻はこう言ってくれました。
生きているうちは
風歌の弟や妹の為に無理にでも笑顔を見せてあげて
それが風歌の為にもなる、
そして自分が天に召されて
風歌に再び会えたときに
全身全霊で風歌と笑い合えばいい
そう言われました。
そうして
作り笑いは本当の笑顔になってきて
普通に笑えるようになりました。

今では風歌の弟や妹も笑顔で僕と写真に写っています。


前回の文章の更新から一年経ちました

この一年の間に7件の新たな犠牲者の事が耳に入りました。
新たな犠牲者、残された家族、天国の子ども達、そして風歌にも
申し訳ない気持ちで一杯です。

掲示板のある書き込みに対する僕の返信があります。
その一文を転載します。

書き込みありがとうございます。

もう10年前になりますが、当時の僕は保育園で子どもが死ぬと言う事を
全く思いつきもしませんでしたし、知りもしませんでした。
まして、娘の死を覚悟して預ける事など考えも及びませんでした。

3児の母様のおっしゃるように自宅で育てる事が一番いいのかもしれませんが
公共のバスやタクシーを利用するように、制度として存在する物を利用する事は
時と場合によっては、良いことだと考えています。
保育園や託児施設を否定する気持ちはありません。
娘の死を経験し深く知る事で保育園、託児施設での死亡事例を沢山知りました。
過去に起きた事例を知ると、1歳を過ぎたから大丈夫とは言い切れないことも知りました。

危機意識を持ってしっかりとした保育をしている施設では事故は起こっていません。
世の中の話ではなく、最先端で子どもに接する方の意識の問題だと感じます。

 僕は娘にとって初めての『うつ伏せ寝』を保育園で経験させてしまった事を悔やんでいます。
自宅で目を離さない状況で慣れさせておけばよかったと後悔しています。
預ける時に、『うつ伏せ寝』はさせないでくださいとはお願いしたのですが、
実際は違うようでした。
今の僕にできる事は、『うつ伏せ寝』は死のリスクがある、
特に初めての時は危険です。と言い続ける事だと思っています。

勝手な事を長々と書きましたが、
我が子すら守れなかった馬鹿な父親の言う事ですのでお許しください。
風歌の経験した事、娘の人生が誰かの役に立つ事を信じているのです。
それではこれからもよろしくお願いします。

この文章がこの『風のあしあと』と言うホームページの全てです。
これだけの事を知って欲しいが為に十年もかかっています。

そんな中、今年2009年3月千葉県で開催されたSIDS学会では
新たに遺伝子説や咽頭部閉塞説なる説明が展開されていたと
学会に参加した和(なごみ)ちゃんのお父さんから落胆のメールが届きました。
救いだったのが
窒息死もありえるという学説を展開されている医師もいたとの事でした。

乳児の突然死についてはSIDS学会が権威であるとされています。
それがこの10年間こうも進歩しないのは残念でなりません。

これまで発表された学説は一旦発表されたら勝手に日本国を内駆け巡り
否定された後でも居座り続けています。
都合のいいように引用され続けています。
その最たるものが前回の更新で詳しく書いた。
シュタインシュナイダーの学説で
殺された子どもの研究発表であるにも関わらず
SIDSの実例だと曲げられて
今もどこかで影響を与え続けています。
〜だから無呼吸がおこり死に至ったと

実際は
うつ伏せ寝に慣れていない子どもの初めてのうつ伏せ寝は
泳いだ事のない子どもを足の届かないプールの中に投げ込む事と同じである。
これが僕が考えた学説?です。

学説ではなく例えです、
うまく泳ぎだす子供もいるでしょうが
そのまま泳げない子もいる
体調にも左右されやすい、
こう考えた方が良いと思います。

だからしっかり監視した状況でうつ伏せ寝に慣れさせる事が必要だし
出来ればうつ伏せ寝にはさせない事が良い
そう思えるのです。

僕が知る事故に遭って天に召されたお子さんのほとんどが
初めてのうつ伏せ寝で受難していると言う事実からの例えです。

権威のある専門家に調査して欲しいです。


最後になりましたが
十年間
拙い文章に付き合ってくださった方に
御礼の意味を込めて
風歌の葬儀の後に送ったお礼状です。
お読みください。


謹啓 貴下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます
先般 長女 風歌(11ヶ月)の逝去に際し 御丁重な御弔慰と御供物を
賜りまして厚く御礼申し上げます
長女 風歌は皆様方に一生分以上の愛情をいただき あの小さな身体
いっぱいにつめこんで天国へ旅立ちました
皆様の御厚情に対し同家といたしましては香典返しの上 御挨拶申し
上げるのが本意と存じますが略儀ながら書中をもちまして謹んで
御礼御礼申し上げます                          敬具
 
  平成十一年四月


                        佐伯市
                             宮田 浩太郎
                                 ひとみ

長い間ありがとうございました。

新たな犠牲者が出ないことを心から願います。
(2009年3月26日風歌の命日に)
宮田浩太郎