飛士己(ひとき)君の続報

香川県の飛士己君を襲った出来事が
園長による、殺人での逮捕と言う形に進展しました。
ここに至るまでに、ご家族が知った
飛士己君を襲った出来事の詳細を
皆さんに知ってほしいと思います。
これは、園長の逮捕後の供述
それまでのお母さんの体験や
事件後に集めた情報であり
その情報を元に飛士己君のお母さんが
2002年8月に静岡県で開催された、
『第34回全国保育団体合同研究集会』
その席上で公演された原稿です。

ご家族からのご協力により
この場に転載させていただきます。

読む前に考えて欲しい事があります。
それは、この事件は事故直後
飛士己君の死因を『SIDS』とされ
誰の責任でもなく病死として処理されかけ
警察に家族が異常を訴えても取り上げてもらえず
それでも、納得のいかないご両親の努力により
世論が後押しをする形で真相が明らかになり
殺人者の逮捕へとつながった事です。

もしご両親の努力が無ければ
人殺しが野放しにされ
それに協力した警察や医師、行政の無責任さ
それすら何も無かったように誰にも知られること無く
闇の中に消えるところでした。


 「我が子は病死なんかじゃないと叫んでいた」  


 私達は、香川県の小鳩幼児園という所で1歳2ヶ月の長男ひときを亡くしました。
簡単ではありますが、この事件の真相をお話したいと思います。
尚、この事件は谷元園長がひときを殺害したとして逮捕、
起訴され公判が今も続いていますのでここでは谷被告とさせていただきます。
 
小鳩幼児園に子供を預けようと思ったきっかけは、まず町営の保育所に聞いた所、
どこもいっぱいで入れないという事もあり、自分で探し、
小鳩幼児園に見学に行きました。谷被告が私の母親くらいの年齢であった事、
当時の谷被告の話によると現在は4人の乳児を預かっており、
その4人を自分も含めた2人の保母で見ているという事、今までずっと保母をしていて、
本当に子供が好きで子供を自然の中で自由に育てるということをモットーとしている事。
子供達にはその子の月年齢に応じた食事を手作りしている事。その食事においても、
自然のものを使うようにしている事。などの話でした。
後になり、それらの話がすべて嘘だった事が解りましたが、
当時の私は人を疑うと言う事を考えた事もなかったので、谷被告の言う事をすべて信じ、
小鳩に預ける安心感と共にいい所を見つけた、などと思っていました。
谷被告を信じきっていたのです。それはというと、私がひときを迎えに行くと、
いつもひときの園での様子を詳しく話し、こういう遊びをしたとか、こんなことができたとか、
毎日ひときの為に作る食事のメニューも細かく紙に書いてくれたりしました。
私は、ひときを預けている間ここに預けてよかったとさえ思っていたのです。
しかし、それらすべて嘘のかたまりだったのです。


 ひときの様子を話しますと、よく泣いていました。
園に着くと泣き、谷被告に抱かれると火が着いた様に泣いていました。
私が迎えに行っても泣いており、私が抱き上げると泣き止んでいました。
そして家に帰るとほとんど泣かないのですが、少し甘えん坊になっていました。

 普段ほとんど泣かない我が子が、園に着くと泣くことを私は谷被告に聞きました。
そうすると谷被告は、「預けられた子供は
,最初はみんなこんな感じです。
情緒不安定になるんです。すぐに慣れてみんな私の胸に飛び込んでくるようになりますから。」
などと言われ、私はその谷被告の話を信じきっていました。


 そんな中、2月19日ひときは谷被告により殺されました。
預けて10日目の事でした。ひときが亡くなりすぐに知人が小鳩幼児園の事を調べてくれました。
その結果、地元では有名な虐待幼児園という事を知りました。
私達夫婦は最近越してきたばかりで、近所に知合いもなく、そういう噂を知りませんでした。
まさか、こんな田舎町にそんな虐待幼児園が存在する事事態考えもしませんでした。


 2月19日谷被告から職場に電話があり、
「お昼寝から起きてこないから見てみると息をしていない。
他の病院に電話をしたが、そういう状態の子は診れないと断られた、どうしよう。」という電話でした。
私は「急いで(いつもひときを診て貰っている)病院に連れて行って。」と言い、
会社の上司に連れられ急いで私も駆けつけました。
病院で私は何故か、ひときを谷に殺された、という思いが高まり谷被告に、
「ひときを殺したでしょ。」と言いました。
すると谷被告は「この子は家でいたら家で死んでいた。園でこんな事があると迷惑だ。」などと、
かなりの口調で言われました。「何故救急車を呼ばなかったのか?」という問いに対し
,
谷は「まだ、(ひときの体が)温かったから助かると思って、自分で人口呼吸した。」などと、
納得できるはずもないおかしな言い訳をくりかえすばかりでした。

2月20日に出たひときの死体検案書には、
SIDS(
乳幼児突然死症候群)の疑いと書かれていました。
この時の警察の説明は「この子は死ぬ運命だった。それが
SIDSという病気です。
この日家に居たら家で亡くなっていた。」と、谷被告と同じ事を言われました。
私達はどうしても納得ができません。
大事な我が子が1歳2ヶ月で死ぬという運命を抱えて産まれてきたなんて、
そんな悲しい事あるはずがない。なんとしてでも真実が知りたい、
ひときは生きていたはずだ、という一心で動きました。
ひときが亡くなった事実を受け止めたくないという気持ちが2人ともあったのだと思いますが、
それと同時に、ひときの体に、亡くなった当日ついていた痣の数々がどうしても、ひときの訴えに聞こえました。
「僕は苦しかった、本当は死にたくなかった、もっとママにもパパにも甘えて抱っこされたいよー。」って、
そんなひときの声が聞こえました。

 ひときは谷被告に殺されたのだ、という事はひときが亡くなった当初から警察に訴えました。
それは何故かと言うとまず、谷のいう事がおかしすぎるという事です。
しかもひときが息をしていないにも関わらず、救急車も呼ばず、
ひときを助けようという意思が全くみられなかったという事、
谷の説明や時間のつじつまが合ってないという事など、どう考えてもおかしな事がありすぎました。
でも、警察はそんな私達の訴えは全く聞き入れず、谷被告の言い分しか聞き入れませんでした。
でも、私達は訴え続けました。谷の言っている事はおかしい。
嘘をついているはずだと。調べてくれと何回も何回も申入れをしました。
しかし全く相手にはしてもらえず警察は、
「SIDSですから、病死ですから」とその言葉を繰り返すばかりでした。

そしてひときのお葬式が終わり、その次の日にも警察に行きました。
その時はなんとしても調べてもらいたいと言う気持ちから、
谷被告のおかしな行動、言動などを資料にし、それを持って行きました。
私は「ひときは午前中に谷の暴行により死んだのではないか。」と訴えました。
その根拠は、谷被告は2月19日病院に駆けつけた私に、
真っ先に「昼ご飯は食べなかった。」と言ったからです。
何故あんな時にそんな事をわざわざ言ったのか。
たぶん、ひときが食べられない状況だったのを隠す為ではないかと思ったのです。
そして、谷被告の悪質な虐待の事実を知り、谷被告の人間性を分析し、谷自身のプライドの高さから考えて、
当日口論した私に腹を立てその怒りをひときにぶつけたのではないかと考えました。
そして、「谷被告は様子のおかしいひときをあえて助けず、殺した。
確実に死ぬまで待っていた。それは、みたら死んでいたと言う為に。病死にする為です。
だからまずひときの亡くなった正しい時間を知りたい。
そうすれば真実が見えて来る。」そういった事を何回も訴えました。
しかし、答えは同じです。「SIDSいわゆる病死です。例え暴力の事実があったとしても、
その因果関係がないという事がはっきりしましたんで。」という話でした。
まるで私が子供の死について考えすぎて、
少しおかしくなっているのではないかと思われているような感じがしました。
担当の刑事は「ひときの亡くなった時間については、胃の内容物だけで調べるのではないので、
その他体の状態も診ていますから。この死亡時間は変わりません。」などと言われ、
幾度となく主人が「後に疑いとついていますが、この病名は変わるのですか?」ときいた所、
警察は、「これは、決定と思ってもらって結構です。」と言われました。


 私達は諦めきれず、
「もう警察には動いてもらえない。それなら、自分達で真実を見つけるほかない。」
と思い、2人で動きだしました。


 そんな中、やっとの思いで、あかちゃんの急死を考える会、の方々に出会いました。
みなさん、子供を亡くされ、SIDSという結果に苦しめられ続けています。
その人達には本当に助けられました。
赤ちゃんの急死を考える会に出会ったのは3月4日のことです。
その間2人で本当に苦しみ、行き詰まり「もうこのままひときの所にいこうよ。」
と弱音を吐いたりしていた矢先の事でした。みんな自分の事の様に考えてくれ、
自分達ができなかったからと、いろんなアドバイスをして頂きました。
谷との会話をテープに撮ったという事もこの方々の助言のもとです。
そういう地道な行動とともに、3月20日頃より新聞、テレビにこの事件を訴え、報道が始まり、
そしてその会から高見澤弁護士を紹介して頂き、3月29日、谷被告を「殺人罪」で告訴し、
警察の重い腰を上げざるをえない、という所までこぎつけたのです。
個人情報保護法案等でマスコミの取材についてはいろんな事が議論されていますが、
私達にとっては天の助けだとも思えました。取材をうけた当初はいろんなとられかたもしましたが、
私達の真意をマスコミの方も理解してくれ、
正義の為の報道をしていただいたとマスコミ各社には感謝しています。


 次に保育者である谷被告が何故、
預かっているひときを虐待していたのかという理由を述べたいと思います。
谷被告は、ひときの事を預けた当初からいじめていたみたいです。
その原因は、ひときが泣く事(谷被告は異常な程泣く子が嫌い)、母親(私の事)が、嫌いだった。
谷被告は母親が気に入らないとその子供に虐待を加えるという傾向がありました。

 例(谷被告が進めた宗教に入らなかった母親の子供を、
「あなたが断ったからこんな不幸が訪れました。」と言って、子供に暴力を加え、母親に返していた。)

 谷被告は、私の事が嫌いでしかたがなかったらしいです。
谷被告は私の事を若いと思っていて、若い母親事態が嫌で仕方がなかったらしいです。
それはと言うと、「自分(谷被告)の言いなりになりそうにないから。」という事らしいですが、
谷被告は常に自分が女王のように振る舞える環境に居たかった、という事です。
そういった意味などから、当然自分より弱い子供達の中で生活し、思いどおりにならないと、
虐待を繰り返しながら生活していたのです。小さな子供は当然反抗できませんから。


 2月19日朝、私は初めて谷被告と口論しました。
前日2月18日にひときの膝、額に痣がついており、
その時私は、まさか虐待されているなんて思わなかったけれど、何故そんな痣が付いたか聞こう、
と言う気持ちから、いつもより5分程早く行きました。すると、谷被告は早く着いた私に激怒し
、私も谷被告のあまりの酷い言い方につい言い返してしまったのです。
谷被告は私からひときを奪うように抱き上げ、奥の部屋に連れて行きました。

そのすぐ後から、谷被告の虐待が始まったのです。

9時頃、怒りの収まらない谷被告はひときを約1メートルの高さから
下に叩きつけるように放り投げ、その時にひときは頭部を強く打ちました。
谷被告はそれでも気が治まらず、ひときの上に馬乗りになり、
顔面を数回殴り、ひときを殴っている間、ひときの顔がだんだんと私の顔にみえてきて、
私の名前を叫びながら殴ったそうです。ひときは強く頭部を打ち、
強く顔面を殴られた事により、グッタリしました。そしてしばらくして、
ひときの体に様々な異変が起き出したのです。
10時頃ひときはケイレンを起こしました。
これが最初の異変の始まりです。
でもこの時谷被告が救急車を呼んでいればひときは助かっています。
しかし、谷被告は自分の虐待がばれるのを恐れ、
「(ひときには)このまま死んでもらおう。」と思ったのです。
谷被告は、グッタリしているひときの服を着替えさせたり、
おかしを食べさしたり、いろんな事をしていま
す。

ひときはずっと、「アーアー。」と泣いていたそうです。
たぶん私達に助けを求めていたのだと思います。
その泣き声もだんだんと小さくなっていきました。
それが11時頃です。しかしこの時もひときはまだ助かります。
谷被告がひときを抱き上げると、もうひときは手も上げられなくなりました。
体がグッタリして力がはいっていなかったそうです。
そしてひときの泣き声はさらに小さくなりました。これが11時半頃です。
でもこの時病院に連れて行けばまだ助かっています。
しかしひときを助けようとせず、谷被告はひときを布団に寝かせました。
しばらくしてひときの脳が、ゴボッゴボと鳴ったそうです。
それが11時45分頃この時がひときの最後でした。
谷被告は、ひときが少しずつ死に近づいていく様を助けようとせず、
ずーっと観ていたのです。そして、ひときが確実に死んだ15時40分頃ようやく
私に電話をかけてきたのです。その間谷被告は自分が助かりたい一心で
いろんな裏工作をしました。それらの裏工作についても少し考えればすぐに見破れるものばかりで、
その事を私達は当初から警察に訴え続けていたのです。


 このような悪質な殺人事件にも関わらず、SIDSという診断基準が曖昧で、
施設での過失や殺人でさえも病死にされてしまう恐れのある
免罪符によって事件は闇に葬り去られようとしていました。
そして、その事件の免罪符といえる
SIDSをたてに警察は
まるで谷被告の味方をするかのように、私達の訴えに全く耳を貸してはもらえませんでした。

しかし結局私がずっと警察に訴えていた事が真実だったのです。
もし、泣き寝入りしていたら、
殺人者谷被告は警察のおかげで捕まる事もなく今も虐待を続けているでしょう。

  ひときはもう帰っては来ない。でも、せめて本当は何があったのか調べようと思いました。
そうする事でひときの苦しみも少しは軽くなるのではないか。
私達は谷被告に言いました。
「警察が調べなくても私達が調べるから。もう、あんたに園は続けさせない。」
谷被告は通夜の席で「4月から園を始める。」などと言っていたのです。


これはたぶん行政が許可を出したからそんな事を、
皆の前で堂々と言ったのだと思われますが、
そんな、いいかげんな行政にもなんともいえない腹立だしさを感じます。


 今まで警察、行政にいじめられ、現在もそれはかわらず続いています。
昨年11月の時点で谷被告の悪質きわまりない虐待の事実を警察
,行政共に知っていながら、
何もせず。しかもその問題の園で体に異常なまでの痣をつくり死んでいった大事な我が子、
ひときの死さえもたいしたことのないように扱われてきました。
あのまま私達が泣き寝入りしていたら、今も小鳩幼児園から子供達の悲鳴が聞こえていたでしょう。


 あんなに虐待で有名だった園が何故あんなに長く続いていたのか?
何故誰か1人、いやその事実を知っていた人達は立ち上がらなかったのか?
そんなに谷を恐れていたのか?あんな人間のどこが怖いのだろう。
怖いのは谷被告を野放しにしていた事であり、
谷被告は今まで数多くの子供に暴力を振るっていた犯罪者だ。
自分の子供を谷被告から助けても他の子が被害に合っている事は当然解ったのではないか?
自分の子供が助かればそれでいいと思ったのか?
しかし、私は大事な我が子さえ守る事ができなかった。だからなおさら動いたのだ。
私はひときが体に宿った時決心した。強くなろうと。ひときがいなくなり暫く忘れていた。
その決心を。強くなるというのは我が子を守るという事と共に
我が子と共に生きて行く子供達を守るのだ。
小鳩幼児園がある限り、谷被告が居る限り、また同じ事件が起こるだろう。
これ以上谷被告に虐待はさせない。ひときを守れなかったから、
なおさら子供達を守りたい。私達と同じ苦しみを与えたくない。
私達の行動をひときはいつもみている。ひときも思っているだろう。
もう、こんな苦しい思いは僕で最後にしてと。


 これから、何ができるのか?私達には、ずっと支えてくれた
「赤ちゃんの急死を考える会」の人達がいる。「ひときちゃんと両親を支える会」の人達もいる。
一緒に闘ってくれる人が大勢いる。今はもう2人じゃない。子供達の悲鳴は2度と聞きたくない。
虐待なんてなくしてみせる。強くなろう。もっともっと強くなって、
子供達をいじめる奴ら、暴力を躾と勘違いしている奴らと闘おう。

今回の私達の事件を、「あんなの事件にもならない。」言い、
ひときの事を「死ぬ運命だった。」と言い放った警察、
2回にわたり小鳩幼児園に視察に行き、谷被告自ら虐待を認めていたにも関わらず、
何もしなかった行政。しかも「自分達は何も悪くない」などと堂々と言い放つ。
そんな警察、行政と闘おう。この2つの機関が考えを改めないと同じ事件は繰り返される。
そうならない為にも私達は闘い続けよう。子育てに悩みながら一生懸命頑張っている母親達の為に。
今居る子供達の為に。これから産まれてくる赤ちゃん達の為に。同じ思いの人達と共に闘って行こう。


 皆勇気を出そう。谷被告の様な人間はもう許してはいけない。
虐待はあってはいけないのだ。それが家庭であっても、保育所であっても。
大人にもいろんな人格があるように子供、幼児にも人格がある。
それなのに何故大人は子供の人格を認めないのか?皆一緒でないといけないのか?
何故同じにしようと無理やりするのか?
かわいく悪を知らない子供を自分の思い通りにしようと思わないで欲しい。


 虐待を許してはいけない。見てみぬ振りをしてはいけない。
赤ちゃん、子供は自分では逃げられない。助けるのが大人だ。
勇気を出して注意して欲しい。行政
,警察に告発して欲しい。
行政、警察に「たかが虐待」と相手にされなければ、
あらゆる手段をつかってそれを突き動かして欲しい。かけがえのない純粋な命のために。


この原稿と共に戴いたメールの一部
飛士己君のお母さんの声を紹介させてください。

この資料をつくるにあたり我が子の無念さを体全体に感じながら、
泣きながら仕上げました、これから先いったいどうなっていくのか
正直不安でたまりません。しかし、できるかぎり精一杯の事をしたいと思います。

もしかしたらSIDSと言う免罪符が無ければ
こんな出来事は無かったのかもしれません。
確信犯としてSIDSを利用する
そんな施設が無いとは言いきれないのが現実ですが、
目の当たりにすると言葉を失ってしまいます。

皆さんもどうか考えてください。
どうすれば防げるかと言う事を

このような出来事が二度と起こらないことを願ってやみません。

天国にいる飛士己君にご両親の努力が届きますように

(2002年8月7日)