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1999年3月26日1時30分 仕事場に保育園から電話がかかりました. 『風歌ちゃんが気を失った、今から救急車で病院に運ぶのでそちらに行ってください』 僕は慌てて妻を迎えに行き。すぐに病院へ向かいました。 先に妻を降ろし、車を駐車場に置いて病院に入ると。 受付の人が 『急いで小児科へ』そこには泣き崩れた保母さんと妻が待っていました 何が起こったのかわからずに、診察室へ入ろうとすると、 看護婦さんが『今処置していますので外で待っていてください。』 保母さんに何があったのか聞いてみると、 『風歌ちゃんがいつもより長く寝ているので気になって見てみると冷たくなって顔色も変 わっていた』 僕と妻は、こっそり診察室へ入り、カーテンの隙間から中の様子を伺ってみました。 |
そこには小さな風歌に3・4人のお医者さんや看護婦さんが必死に蘇生術を施していました、 僕等はそれを見てやっと事の次第がつかめ思わず大声で娘の名前を叫びました。 再び外に出された僕等は、それぞれ風歌の祖父や祖母にすぐに来るように連絡を取り、外で待っていました。 そして30分後お医者さんから中で呼びかけをするように言われ娘に触れながら名前を呼びつづけました。 30分ぐらいたった頃、先生は、『お父さん風歌ちゃんの心臓は戻ってきません』 それからあとの事は、全てストップモーションのようです。 お医者さんは、『到着時、すでに呼吸も心音も無かったので、変死扱いになります、 警察に入ってもらい検死や解剖が必要です』 僕と妻は警察がくるまで風歌を交代で抱き締めあいました。 その後6時間にわたって警察署で取調べを受けました。 その夜風歌は家に帰ることが出来ず 警察署の安置所に泊まりました。 僕等は夜中に風歌に会いたくなり、警察に行きましたが会わせてもらえず、せめて 髪の毛だけでも連れて帰りたいと言ったのですがそれも駄目でした。 翌朝風歌の忘れ物を保育園に取りに行き説明を求めましたが駄目でした。 そして解剖を受けたあと娘を返してもらう為警察へ行きました。 解剖は医大でする為、娘を乗せた車について60km走りました。 5時間後包帯まみれの風歌を受け取りすぐによく似合っていた服に着替えさせました。 助手席に娘を抱いた妻を乗せ、自宅までの60kmをゆっくり帰りました。 家に着くとすぐに通夜の準備の為、家とのお別れをしました。 そして風歌の髪の毛を少しだけ残しておきたくなり、皆に先に行ってもらい。妻と2人で娘の髪を切りました。 |
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お葬式 葬式会場までは、娘を棺に入れずに僕が抱いて歩いていきました。 新聞やテレビで報道された為、大勢の人が弔問に来てくれました。 保育園から花輪がありました、保母さんたちも来ていたのですが 僕が『我が家では風歌から5分と目を離すことがなかった、僕、妻、祖父、祖母いつも誰かがそばに居た 寝ている時も必ず誰かが添い寝をしていた、お前らそれでもプロなのか?』 誰も答えてくれませんでした。 その夜、娘を棺から出し、いつもの様に三人で川の字になって寝ました。 翌朝葬式が始まるまでに妻と風歌と葬式会場から抜け出して、公園や海岸へとドライブをしました。 会場では、生前の娘の元気なビデオを流しました。 保母さん達にモニターの前にならんでもらい、ビデオを見てもらいました。 |
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火葬場 火葬場へは、妻を連れてはいきませんでした。 最後のお別れをして、鋼鉄の扉が閉じました、 係りの人が僕を呼びスイッチを入れるように言いました。 娘を焼く為の鍵を、父親が握るのです。 何故自分が正気でいられるのか解かりませんでした。 鋼鉄の扉には、日の出の模様が浮き彫りにされていました。 外に出ると煙突から煙が真っ青な空へ昇っていっていました。 いよいよ扉が開き、全て変わってしまった娘と会う時が来ました。 あまりにも小さかった為、形が無くなっていました。 生前風歌には前歯が4本生えていました。 下あごにまだ生えていなかった奥歯がありました。小さいけれどれっきとした奥歯の形をしていました。 骨はもろくて箸でつかむと砕けてしまう為、手を使って拾いました。 まだ暖かくとても軽くて、使う事の無かった奥歯を手に取りました。 骨壷に全て入れ終わり、娘を乗せていた台に背を向けて 「さあ、帰るぞ風歌、やっとおうちに帰れるぞ」 1999年3月28日の事です。 そして、僕達の本当の苦しみが始まりました・・・・・・・・ |