悲しみの共有


もしも
風歌の亡くなった場所が
自宅で
その近くに妻が居たとしても
僕は、
悲しみを共有する者として
妻を責める事は絶対にしないと思います。

その時は、
『SIDS』
と言う言葉を使って
『SIDS』の本来の意味
『残された遺族をいらぬ攻撃から守る』
と言うことを実践すると思います。

逆の立場になって
僕が風歌の近くに居たとしても
妻は、
悲しみを共有する者として
僕を責める事はないと信じています。

しかし
今『SIDS』と言う言葉は
本来のそうした意味から外れたところで
政治的な意味合いを追加されてしまっています。
それは、ずさんな体制の現場を
守る為にです。


もしもその死に
悲しみを共有しない人間が関係して
その死に対して
なんの思いも持たなければ
遺族は鉄槌を求めます。

我が家の場合は
風歌と同じ部屋で最後にそばに居た保母さんは
悲しみを共有する者ではありませんでしたが、
その時の状況を
詳しく話してくれて
風歌の仏壇の前で
『私がもっとちゃんと見ていたら』
と涙を流し
月命日やお盆には
線香を上げに来てくれています。

この方は
悲しみを共有する者でないにしても
ここまで風歌の死を
思ってもらえると
責める事など出来なくなります。


2000年8月20日
東京で
同じ問題で苦しむ遺族で構成された
『赤ちゃんの急死を考える親と弁護士の会』
の総会がありました。
僕も参加して
日本全国から集まった遺族と
お話をしました。

抑止力の一つとして
のページに書いた
起訴された看護婦さんの
事について
湧介君のご遺族から
お聞きしました。

その看護婦さんは
湧介君の死に関わった事について
なんの思いも持っていないようです
線香も上げに来ない
お墓にも参った事が無い
まともに話した事も無い
まるで
他人事だそうです。


ここで『SIDS』を政治的に使おうとする人は
ご自宅で不幸に見まわれた遺族を
引き合いに出して
この看護婦を
遺族と同じ扱いをしようとします。

『その時そばに居た人間を犯罪者にするのか?』
そう言って
ご自宅で不幸にあった遺族と
赤ちゃんの死に対して
なんの思いも持たない人間を
同じだと言います。

それは自分達の
逃げ道を残す為にです。

遺族にしてみれば、
悲しみの共有は無理だとしても
その死に関わったと言うことを
何か心の中に思ってもらえれば
それ以上は求めません。

それ以外に求めるものは
決してかなわぬ夢
宝物を返してもらいたいということだけなのです。


(2000/8/25)